親愛なる読者諸君!
オタクパパだ。
最近、過酷ないじめのニュースが後を絶たず、大変痛ましく思う。
ひょっとすると、今この文章を読んでいる読者の中にも、理不尽ないじめにあって、人生に絶望している人もいるかもしれない。
「学校に行くのが辛い」
「悪口ばかり言われて、生きる気力がなくなった」
「俺(私)には生きる価値なんてないんだ……」
私自身、実の兄から毎日のように理不尽ないじめに遭い、また、重度のコミュ障のため、クラスで孤立し、人生に絶望したことが何度もあった。
そのような絶望した気分のとき、私はいつも、子供時代にいじめられっ子で同じように苦しんでいた偉大な人たちの数奇な人生に思いをはせることで、初心に戻ることにしている。
というわけで、今回は、
元いじめられっ子だった
天才科学者マクスウェル
の壮絶な逆転人生
を紹介したい。
【2019/10/31 追記】
いじめられっ子のオタク少年マクスウェルの絶望人生
ジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell)は、1831年6月13日にスコットランドのエディンバラに生まれた。
(↓)ジェームズ・クラーク・マクスウェルが生まれたエディンバラのインディアストリート14。
出典 – Own work
少年時代のマクスウェルは、昆虫やカブトムシの幼虫、石や花やレンズ、機械などに夢中だったそうだ。
(↓)川にたらいを浮かべて遊ぶ幼いマクスウェルの姿を描いた水彩画。スコットランドの画家ジェミマ・ブラックバーン(jemima blackburn)の作品。
出典 – Own work
マクスウェルは、スコットランド南西部のミドルビーで幼少期を過ごした。
だが、近くに学校がなかったため、母親のフランシス自身が教師となって幼いマクスウェルに勉強を教えたという。
しかしながら、不幸なことに、マクスウェルが8歳のとき、フランシスが腹部のガンになってしまう。
結局、フランシスは、手術のかいもなく、幼いマクスウェルを残して亡くなってしまった。
家庭教師の理不尽な体罰に苦しんだ幼少期
母親亡き後、父親のジョンは、息子の正式な教育を16歳の家庭教師に任せることにした。
だが、この若い家庭教師は、幼いマクスウェルに対し、
「遅い!」
「わがままだ!」
と叱り飛ばして手荒い扱いをするようになる。
この意地悪な家庭教師の扱いについて、マクスウェルの伝記作家ルイス・キャンベルは、次のように書いている。
激しくはないものの、頭を定規で叩かれ、血が出るまで耳を引っ張られた。
確かに指導法としてはうまくいったかもしれないが、マクスウェルは尻込みした態度を見せて曖昧な返事を返すようになり、それを克服するには長い時間がかかった。
・・・実際に克服できたとすれば。
家庭教師の手荒い扱いに父親のジョンは気づかず、マクスウェルは2年間もの間、家庭教師の理不尽な体罰にじっと耐えるしかなかった。
この体験が、マクスウェルにとって生涯のトラウマになる。
しかしながら、体罰の実情を知った母方のおばジェーン・ケイに説得されて、父親のジョンは、家庭教師を解雇する。
その後、マクスウェルは、ジェーンの勧めで、父方のおばイザベラ・ウェッダーバーンのところで世話になり、エディンバラ・アカデミーに通うことになる。
いじめの標的となったエディンバラ・アカデミー時代
だが、意地悪な家庭教師からようやく解放されたと思ったのもつかの間、マクスウェルは、アカデミーでも惨めな思いをすることになる。
田舎っぽい服装とギャロウェイ訛りのせいで、マクスウェルはアカデミーのクラスメートから
ダフティ(Dafty)
と呼ばれ、いじめの標的になったのだ。
(↓)少年時代のマクスウェルが通っていたエディンバラ・アカデミー。彼はここで、クラスメートから毎日のように理不尽ないじめを受けることになる。
イギリスでは、「ダフティ」という言葉には、
馬鹿の、間抜けな、
頭がちょっとおかしい奴
という侮蔑の意味がある。
マクスウェルの伝記作家の一人C・W・F・エヴェリットによれば、当時のイギリスにおいて、「ダフティ」という言葉は、
頭が悪いというより変わっているという意味で、今でいうところの
「変人」
に一番近いのかもしれない
とのことだ。
伝えるところによれば、少年時代のマクスウェルは、身なりなどには全くの無頓着で、見栄えや流行などほとんど顧みず、実用性さえあれば、ファッションなどどうでも良かったという。
いわば、マクスウェルは、ファッションなどにはまったく興味のない
典型的なオタク少年
だったのだ。
後に、マクスウェルと同じスコットランド出身の数理物理学者のピーター・タイット(Peter Tait)は、当時をふりかえって、次のように書いている。
(↓)スコットランドの数理物理学者ピーター・タイット(1831-1901)。
学校では、マクスウェルは内気でぼんやりした奴だと思われていました。
彼は友達をまったく作らず、たまの休みには、古いバラード(詩)を詠んだり、不思議な図形を描いたり、粗雑な数学モデルを作ったりして過ごしていました。
彼はそのような趣味に夢中になっていたので、数学に無知なクラスメートからは
「まったく理解不能な奴だ」
と思われていました。
そのため、彼はあまり褒められたものではない、不名誉なあだ名を付けられたのです。
ところで、天才科学者といえば、少年時代はさぞかし神童や秀才だったのだろうと思われる人も多いかもしれない。
だが、他の多くの偉人達とは異なり、アカデミーに入学したばかりのマクスウェルは、神童からはほど遠く、数学的才能の片鱗さえ見せなかったという。
実際、エディンバラ・アカデミーの教師の評価によると、当時のマクスウェルの学校での成績はごく普通の「中」であり、後半生に見せた輝かしい天才の兆しはまったく見られなかった。
このように、若き日のマクスウェルは、
ファッションに疎く
友達が一人もおらず
毎日のようにイジメられて
クラスメートから馬鹿にされ
ひとり趣味にふける孤独な
オタク少年
だったのだ!
いじめっ子に反抗するも、あえなく返り討ちにあった孤独な少年時代
また、クラスメートの一人、W・マクファーレン(W. Macfarlane)は、当時のマクスウェルについて、次のように語っている。
クラーク・マクスウェルが入学してきたとき、彼はいくぶん質素で風変わりでした。
少年達は、彼を「ダフティ」と呼んで、物笑いの種にしたものです。
また、ある日、彼がすさまじい勢いで、まるで悪魔のような力で、いじめっ子に反抗したことを覚えています。
しかしながら、その後も、彼はただ一人、取り残されていたのです。
このように、マクスウェル少年は、連日のように続く過酷ないじめに絶望していた。
そのため、ある日、絶望的な状況を打開すべく、意を決して、いじめっ子に立ち向かうこともあったそうだ。
だが、運命の女神は、非力ないじめられっ子に対してあくまでも残酷だった。
必死の勇気を振り絞って、いじめっ子たちに立ち向かったものの、歴然とした人数と力の差はどうしようもなく、返り討ちにあってしまったのだ。
実際、キャンベルによると、ある日、マクスウェルは、昔きれいに仕立ててもらった服が、ぼろぼろに破れたひどい状態で、家に帰ってきたこともあったという。
家族に新しく買ってもらったばかりの服をぼろぼろに破かれ、頼りない足取りで家に帰ってきたマスクウェル少年の心のうちは、いかなるものであっただろうか?
「惨め」などという生やさしいものではなく、まさしく、
絶望
以外の何ものでもなかったのにちがいない。
その日、絶望のあまり、自ら命を絶っていなかったほうが、むしろ不思議なくらいだ。
反抗のかいもなく、マクスウェルは、その後もクラスメート達から馬鹿にされ、仲間はずれにされて、孤独な日々に苦しんだ。
オタク扱いされて連日のようにクラスメートからいじめられ、仲間はずれにされたまま、クラスでたった一人孤独の日々を送るマクスウェル少年の心境はいかほどであったろうか?
絶望の淵にあったのは想像にかたくない。
実際、当時、マクスウェルの学校のクラスには60人の生徒がいたが、はじめの頃は、誰一人として、彼に優しく手を差し伸べる者はいなかったという。
そういう意味で、当時のマクスウェルはまさしく、
孤独
な少年時代を送っていたのだ。
大学デビューにも失敗したオタク少年
その後、マクスウェルは無事、エディンバラ大学に入学したが、大学生活においても、彼の苦難の日々は去らなかった。
マクスウェルは、生まれながらのスコットランド訛りや、ファッションとは無縁の田舎っぽい野暮な服装のため、しばしば物笑いの種になり、大学生活にもなじめなかったのだ。
(↓)マクスウェルが通っていたエディンバラ大学。彼は大学でもオタク扱いされて孤立し、居場所がなかった。
少年時代からオタク扱いされてクラスメート達からいじめられ続け、大学デビューにも失敗したマクスウェル。
大学で孤立し、教授との関係も上手く構築できなかった若きマクスウェルは、当時の心境を描いた次のような二行連句を残している。
汝歳月よ過ぎ去れ
少年を鞭打つことが
罪と思われる時代が
早く来ますように
ここまで思い詰めるほどまでに、マクスウェルは、学友から孤立し、リア充からほど遠い孤独な人生を送って、苦悩の日々をたった一人、悶々として過ごしていたのだ。
それから何年も後の1872年、ケンブリッジ大学の実験物理学の教授になったマクスウェルは、就任記念の公開講義で、次のように述べている。
幾何学をはじめ、たえず精励勤勉しなければならない科学分野に没頭している人はみな、人間嫌いにちがいないと思われていました。
そういう人は、人間らしい関心をすべて投げ捨て、世間的な生活や活動とはかけ離れた抽象的な仕事をしているので、娯楽や義務にはまるで関心がないと決めつけられていたのです。
そういう見方がされていたのは、それほど昔のことではありません。
このように、ファッションなど世間の流行にまるで興味のない人間を馬鹿にする当時の風潮に対し、マクスウェルは心底うんざりしていた。
その点は、当時も今もさほど変わらないのかもしれない。
ケンブリッジで才能を開花させたマクスウェル青年
だが、その後、マクスウェルの絶望の日々も長くは続かなかった。
1850年にエディンバラ大学を去ったマクスウェルは、ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに移った。
(↓)トリニティ・カレッジのグレート・コート。若きマクスウェルはここで才能を開花させた。
出典 – http://www.andrewdunnphoto.com/
トリニティー・カレッジは、ケンブリッジ大学を構成するカレッジであり、万有引力を発見した天才アイザック・ニュートンや30人以上ものノーベル賞受賞者を輩出したイギリスの名門カレッジだ。
1854年、マクスウェルは数学の学位を2位の成績で取得して卒業し、さらに厳しい数学のスミス賞では、1位の成績で卒業した数学者のラウスと同時受賞となった。
(↓)ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジでの若きマクスウェル。この頃の彼は、素晴らしくハンサムな青年になり、かつていじめられっ子だったオタク少年の面影は見られない。
才能を開花させたマクスウェルは、科学史上重要な発見を次々となしとげる。
そのいくつかを紹介しよう。
土星の環の正体を数学的に解明
マクスウェルは、ガリレオ・ガリレイによって観測されて以来、200年以上もの間、明らかではなかった
土星の環の謎
の解明に成功したことで知られている。
1857年、マクスウェルは、土星の環を数学的に考察し、環が安定して存在し続けるためには、無数の粒子から構成されていなければならないとの結論を導き出し、ケンブリッジのアダムズ賞を受賞したのだ。
(↓)土星探査機カッシーニにより2004年に撮影された土星。土星の環は1610年にガリレオ・ガリレイによって初めて観測されたが、その正体は、実に200年以上もの間、解明されていなかった。
(↓)同じくカッシーニ探査機が撮影した土星の環。環は、土星の赤道から約6,600 km〜120,000 kmの距離まで広がっており、氷やシリカ、ケイ素などの粒子で構成されており、その大きさは細かい塵状のものから、小さな車程度までさまざまだ。驚くべきことに、マクスウェルは、探査機もない時代に、数学の力のみで、土星の輪の謎を明らかにしたのだ。
史上初のカラー写真の撮影に成功
また、マクスウェルは、1861年、光の三原色のフィルターをそれぞれ着けて別々に撮影した3枚の写真を重ねることで、
史上初のカラー写真
の撮影に成功した。
このとき撮影されたのは、タータンリボンであり、この驚くべき成果は、王立研究所で発表された。
(↓)マクスウェルによって撮影された史上初のカラー写真。
気体の分子運動論を発表
また、同年、マクスウェルは、気体の分子運動論の論文を発表し、気体の統計学をはじめて打ち立てた。
気体には、無数の分子が含まれているが、その1つ1つはでたらめに動きまわり、たえず互いに衝突しては弾性的に跳ね返っている。
だが、それが全体として無秩序にならず、厳密な統計法則に従うことを明らかにしたのだ。
(↓)熱力学的平衡状態において、気体分子の速度が従うマクスウェル分布。この仕事も、科学者としては超一流の成果だ。
電磁波の方程式を導き出し、光の正体を明らかにする
また、マクスウェルは、1864年、
電磁力に関する法則
を数学的に導き出すことにも成功した。
マクスウェルは、下のように、電場と磁場の振る舞いを示す4つの方程式(マクスウェル方程式)を導き出したのだ。
(↓)エディンバラのマクスウェルの像に掲げられたマスクウェル方程式。Eは電場の強度、Bは磁束密度、Dは電束密度、Hは磁場の強度を表す。また、ρは電荷密度、jは電流密度を表し、記号「∇・」(∇は「ナブラ」と呼ばれる)は、ベクトル場の発散(div)を表し、記号「∇×」は、ベクトル場の回転(rot)を表す。
出典 – Own work
これらの方程式から、マクスウェルは、
変化する磁場が電場を生みだし、変化する電場は磁場を生みだし、電場と磁場とが互いを生み出すことにより、波のように真空中を伝わる
ことを発見した。
それだけではなく、
電磁波の速度が、すでに知られていた光の速度に一致する
ことをも明らかにした。
このように、マクスウェルは、電気と磁気のあらゆる現象を統一し、光が電磁波としての性質をもつことを明らかにして、
長年の謎だった
光の正体を
解明した
のだ。
後に、相対性理論を発見した天才物理学者アルベルト・アインシュタインは、マクスウェルの発見について、次のように書き記している。
「あれほどの経験に恵まれる人間は、世界中を探してもまずいないだろう」
(↓)20世紀最高の天才理論物理学者アルベルト・アインシュタインの成果も、マクスウェルの導き出した方程式なくしてはありえなかった。
このように、マクスウェルは、科学史上まれにみる数多くの発見をなしとげ、
壮大な知的体系の
1つを作り上げた
のだ!
ナチスドイツの侵略から祖国と世界を救ったマクスウェルの驚くべき発見
ところで、マクスウェルの発見は、80年後、思いもかけない形で、祖国イギリスおよび世界を救うことになる。
第二次世界大戦でフランスがナチスドイツに降伏した後、ヒトラーはイギリス本土上陸のため「アシカ作戦」の準備を命じ、ドイツ軍はイギリス海峡の制空権確保のため、英国本土航空決戦が開始された。
(↓)1933年当時のアドルフ・ヒトラー。
出典 Bundesarchiv, Bild 146-1990-048-29A / CC-BY-SA 3.0
(↓)第二次世界大戦中にドイツが計画したイギリス本土上陸作戦「アシカ作戦」の計画図。ヒトラーは、圧倒的なドイツ空軍の力の前に、イギリスなどすぐに降伏するものと考えていた。
このときドイツ空軍の司令官ヘルマン・ゲーリングは、1,480機もの爆撃機、980機もの戦闘機を有する2個航空艦隊をフランス西部へ展開し、イギリス空軍を圧倒すべく軍事行動に出た。
ヒトラーは、ポーランドや北欧で見せつけたドイツ軍の圧倒的な強さの前に、戦わずしてイギリスを屈服できるものと考えていた。
(↓)バトル・オブ・ブリテン中のドイツ空軍の爆撃機ハインケル He 111の編隊。He 111はスペイン内戦で実戦投入され、1939年のポーランド侵攻や1940年のフランス戦などで猛威を振るい、連合軍を震え上がらせた。
(↓)英本土への爆撃を行うHe 111。
(↓)空襲直後のロンドンの消火活動にはげむ消防隊。
だが、ドイツ軍にとって予想外だったのは、ドーバー海峡を越えて飛来する航空機を探知する新しい技術がイギリスを救ったことだった。
その技術とは、
レーダー技術
だった。
1935年、イギリス航空省は無線電波を飛ばして航空機を発見・捜索するシステムの実用化を無線通信の研究者であるワトソン・ワットに依頼していた。
ワトソン・ワットは、電磁波による航空機の探知システムを航空省に提案した。
(↓)イギリスの無線通信・レーダー研究家にして、連合国側の防空レーダー発明者のロバート・ワトソン・ワット。ワットは、マクスウェルの発見した電磁波の方程式に基づく世界最高のレーダー防空網による迎撃システムをつくりあげた。
そこで、イギリスでは、レーダーによる新しい迎撃システムを開発するための秘密の実験が2月から行われた。
そして、6月には27kmまで探知でき、その年の終わりには探知距離は100kmまで伸び、1937年までに迎撃システムが完成した。
(↓)高空探知用のチェイン・ホーム・レーダー(CH)。
(↓)イギリス東海岸のチェイン・ホーム・レーダーステーション。
このレーダーを活用した迎撃システムにより、ドイツ軍の航空部隊がイングランドの海岸線に到達するはるか前から、その規模や方位、高度を探知し、迎撃部隊がベストコンディションで迎撃する態勢が整えられたのだ。
その結果、1940年のイギリスでは、
世界最高の防空体制
が整っていた。
(↓)戦闘機に向かって走るイギリス空軍のパイロット。
(↓)ドイツ空軍の手から救ったイギリスの救国戦闘機スーパーマリン スピットファイア。
(↓)イギリス戦闘機とドイツ戦闘機の空戦。
(↓)ハインケル He 111を攻撃するスピットファイアの銃弾。
(↓)1940年、フランス側の海岸に緊急着陸したドイツ軍の戦闘機Bf 109。
出典 Federal Archives, Photo 101I-344-0741-30 / Röder / CC-BY-SA 3.0
レーダー網を駆使した防空体制により、かつて無敵を誇ったドイツ空軍は、実に
1,900機以上もの
航空機を失った
あげく、イギリス本土への上陸作戦を断念せざるを得なくなった。
その後、イギリスは、後の連合軍による史上最大の作戦・ノルマンディー上陸作戦の重要拠点として大きな役割を果たし、
ヒトラーの世界支配
の野望が潰える
こととなる。
そして、このイギリスのレーダー技術の基礎となったのが、マクスウェルが発見した電磁波の方程式だったのだ。
このように、かつて、
いじめられっ子だった
オタク少年が発見した
電磁波の方程式が
世界をナチスドイツ
の魔の手から救った
のだ!
そして、マクスウェルは図らずも、少年時代に自分自身を散々苦しめた、いじめっ子たちの子孫にも救いの手を差し伸べたことを忘れてはならないだろう。
マクスウェルの他者への無限の共感力
また、マクスウェルは、
誰よりも人の痛みを
理解して共感する
不思議な能力
があった。
例えば、マクスウェルは、妻のキャサリンに心から尽くしたことで知られている。
妻のキャサリンは、マクスウェルの7歳年上で身体が弱く、晩年には神経症を患っていた。
だが、マクスウェルは、自分自身が病気のときでさえ、いつもキャサリンの気を遣って世話をしていた。
(↓)1869年のマクスウェルと彼の妻キャサリン
キャサリンによると、あるときマクスウェルは、病床のキャサリンに3週間徹夜で付き添い、その間も昼間はキャベンディッシュ研究所で職務をこなしていたという。
病気の妻のために、
20日以上も
徹夜で看病する
とは、並大抵の精神ではできないだろう。
だが、マクスウェルは、愛する妻のためにけっして自己犠牲をいとわない希有な男だった。
また、マクスウェルは、若い同僚たち、特にほとんど顧みられていなかった人達に大きな理解を示したことでも知られている。
例えば、イギリスの科学者だったファラデーが磁力線の理論を提唱していたが、そのあまりにも突飛な発想に、当時の科学者達はみな、年老いた老人の妄想として長年無視していた。
だが、マクスウェルは、他の科学者が老いぼれ科学者とバカにしていた老ファラデーの言葉に真摯に耳を傾けた。
そして、このときのファラデーとのやりとりがヒントとなって、マクスウェルは偉大な電磁波の方程式を導いたのだ。
また、マクスウェルの無限の共感力を示す例として、次のようなエピソードも知られている。
1865年にキングズ・カレッジを退職したマクスウェルは、グレンレアに定住した。
マクスウェルの伝記作家ルイス・キャンベルによると、グレンレアでマクスウェルは、村で誰かが病気になるとよく訪ねていって、望みとあれば本を読んだり祈ったりしたという。
キャンベルは、このマクスウェルの振る舞いについて、驚きをもって、次のように語っている。
「マクスウェルは、重要な物理法則に対する人々の認識をさらに明確にしようと常に努力しながら、いつも無限との神秘的な繋がりを感じて生きていたようだ」
このように、マクスウェルは、
愛や慈悲など
他者に対する
無限の共感能力
をもっていた。
それは、同じいじめられっ子の「ドラえもん」の野比のび太に通じるものがあるといえるかもしれない。
ドラえもんの短編25巻の「のび太の結婚前夜」において、のび太との結婚に不安を感じたしずかちゃんに対し、彼女の父親は、のび太を次のように評価する。
のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。
あの青年は人の幸せを願い
人の不幸を悲しむことのできる人だ。
それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね
「人の幸せを願い
人の不幸を悲しむ
ことができる」
この他者に対する無限の共感能力こそが、まさしくマクスウェルとのび太に共通する点といえるだろう。
マクスウェルは、少年時代に理不尽で過酷ないじめに遭った経験から、この
人間として
もっとも大切な
そして今では多くの
日本人が失いつつある
他者に対する
無限の共感能力
を身につけたのかもしれない。
マクスウェルは、オタク扱いされてクラスメートからいじめられ、友達もなくさみしい孤独な少年時代を過ごした。
だが、晩年の彼は多くの友人達に恵まれ、幸せな生涯を閉じたという。
それは、彼が身につけた他者に対する無限の共感能力によるものだったといえるだろう。
マクスウェルが現代社会にもたらした技術
マクスウェルは数多くの驚異的な発見をなしとげ、われわれ人類を豊かにした。
マクスウェルがなしとげた発見は、現代に生きる我々にとっても重要なものが多い。
その証拠に、
マクスウェルの
発見がなければ
この世の中に
存在しなかったもの
をいくつかあげてみよう。
TV
ラジオ
スマホ
インターネット
エレベーター
エスカレーター
電車
電子レンジ
オーディオ機器
これらの基礎となる電磁気学の方程式は全て、かつていじめられっ子だった元オタク少年が生み出したものだ。
仮に、少年時代のマクスウェルが過酷ないじめに屈して、早々に人生を諦めてしまっていたら、我々の生活は、どうなっていただろうか?
おそらく、平安時代と同じく、テレビもスマホもネットも存在しない闇の世界の中で、
我々人類はいまだに
中世の暗黒時代
を生きていた
のかもしれないのだ!
そう考えると、マクスウェルの発見がいかに人類にとって大きな前進であったかは、明らかだろう。
また、マクスウェルの発見は、その後、アインシュタインの相対性理論を導くきっかけとなり、壮大な宇宙を理解するための電波天文学となって結実している。
(↓)ドイツの天才理論物理学者アルベルト・アインシュタインの特殊相対性理論の発見も、マクスウェル方程式がきっかけになっている。
実際、アインシュタインは次のように語っている。
特殊相対性理論を生み出せたのは、マクスウェルの電磁気の方程式のおかげだ。
アルベルト・アインシュタイン
また、車椅子の天才、故スティーヴン・ホーキング博士や、ノーベル物理学賞を受賞した天才リチャード・ファインマン博士も、マクスウェルに最高の賛辞を送っている。
マクスウェルは、物理学者の中の物理学者だ。
スティーヴン・ホーキング
–
http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1965/feynman-bio.html
人類の歴史を長い目で見れば、例えば、今から千年後の世界から見たとしても、19世紀のもっとも偉大な出来事は、マクスウェルの電磁気の法則の発見であると判断されるのは、少しも疑いがない。
リチャード・ファインマン
(↓)アメリカ、ニューメキシコ州の超大型干渉電波望遠鏡群(VLA)。電波天文学もマクスウェルの発見した電磁波の方程式を使って宇宙を観測する。
Own work –
(↓)宇宙最初期のビッグバンの有力な証拠となったWMAPによる宇宙マイクロ波背景放射の温度ゆらぎ。マイクロ波の測定もマクスウェルの成果なくしてはありえない。
このように、今日、
我々人類が
宇宙の本質を知る
ことができるのも
元いじめられっ子の
オタク少年だった
マクスウェルのおかげ
なのだ。
マクスウェルの名言
最後に、マクスウェルの名言を引用して、本記事を締めくくることにしよう。
今日の働きの中に生涯の働きへと繋がる部分を、さらには永遠の働きの体現を見いだせる人は幸せだ。
その人の自信の土台が揺らぐことはない。
無限をともにするからだ。
人間の目で物事の外面を凝視するときの憂鬱さから逃れさせてくれるのは、我が友との個人的な繋がりであると言いたい。
機械のように「現象」だけを見るか、あるいは人間になって、いわば他の多くの人と絡み合い、生きている人にも故人にも力づけられている自身の人生を感じるかだ。
私が気に入っている考え方とは、部分と全体の関係が、目に見える世界と目に見えない世界にもあてはまるというものだ。
我々一人一人の人生に伴う個性の裏に、感情や行動だけでなく、人間の存在において深い共通性が隠されているという、神秘的な信念だ。
また、晩年、マクスウェルは友人に次のように語っている。
私の自我と呼ばれるものによってなされる事柄は、実際には、私の中にある、自我より大きな何かによってなされるのだと思う。
(↓)エディンバラのジョージ・ストリートにあるマクスウェルの像。その威風堂々とした姿からは、かつてオタク扱いされたいじめられっ子としての面影は見られない。だが、彼はその生涯をもって、我々日本人が失いつつある大切な生き方を教えてくれたのだ。
出典 – Own work
【最後に】マクスウェルが私達に教えてくれたこと
マクスウェルは、少年時代、連日のように受けた理不尽ないじめや友達のいない孤独な日々に絶望したが、けっして自暴自棄に陥ることはなかった。
それどころか、彼は、最後まで人間の良心を信じて、数々の驚くべき発見をなしとげ、暗黒時代から人類を、そして世界を救ったのだ。
「間抜け」
「うすのろ」
とののしられ、クラスでたった一人、友達もいずに過ごした孤独な日々。
そして、いじめっ子に反抗するもかえって返り討ちにあい、家族に新しく買ってもらった服もボロボロに破かれて家に帰った少年時代。
もし、服をボロボロに破かれた日、マクスウェルが絶望のあまり、自ら命を絶っていたら、この世界はどうなっていただろうか?
おそらく、我々はいまだに中世の暗黒時代のような、
テレビもスマホもない
闇の時代を生きていた
だろう。
だが、マクスウェルは、あれだけクラスメートから理不尽な目にあっても、決していじめっ子を恨むことなく、逆に、われわれ人類に対し、これだけ豊かな科学的遺産を残してくれたのだ。
だからこそ、いま、私は、少年時代のマクスウェルに心の底から感謝したい。
いじめに絶望せず
生きてくれて
ありがとう!
オタクパパより愛を込めて!
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