親愛なる読者諸君!
オタクパパだ。
今回は、大人のためのアニメジャズ入門第4弾だ!
本企画は、これまで1000曲ものアニメジャズ曲を聴いてきたオタクパパが、オタクならではの視点で、大人向けのアニメジャズ曲をあらゆる角度から紹介するという企画だ。
というわけで、今回は、少女漫画が生んだ異色のジャズ青春アニメ「坂道のアポロン」のオリジナル・サウンドトラックを紹介したい。
Amazonリンク アニメ 坂道のアポロン オリジナル・サウンドトラック
なお、「坂道のアポロン」原作の少女漫画およびアニメ版の魅力については、下の記事に詳しく書いたので、興味のある方は、あわせて読んでみてほしい。

「坂道のアポロン」サントラのジャズ11曲のレビュー
それでは、「坂道のアポロン」オリジナル・サウンドトラックの各曲の簡単なレビューをしていこう。
なお、本記事は、大人のためのアニメジャズ入門なので、サントラのうち、11曲のジャズ曲に絞ってレビューしていく。
【第3曲】Moanin’
Amazonリンク Moanin
第3曲目は、「坂道のアポロン」のジャズテーマ曲ともいえるアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズのMoanin’だ。
アート・ブレイキーは、ジャズ史上最高のドラマーといわれるほどの伝説のドラマーだ。
1961年1月、ジャズドラマーのアート・ブレイキーとザ・ジャズ・メッセンジャーズが来日して演奏し、
「蕎麦屋の出前持ちも<モーニン>を口ずさんでいた」
という、都市伝説が生まれたほど、日本中で大ヒットした1960年代のモダンジャズを代表する名曲だ。
ちなみに、「Moanin’」のタイトルの由来だが、原形「moan」には「うめく、嘆く」という意味があり、似た発音のモーニング(Morning、朝)もかけて、「朝が来るたび俺はうめいているんだ」という意味が込められているそうだ。
参考
アート・ブレイキーがこの曲のアルバムを発表した1958年の1年前には、アーカンソー州の知事が州兵を高校に送って黒人学生の登校を阻止したという騒動が起こっている。
この騒動は全米のテレビで大々的に報じられ、リトルロックの市長の要請に応じて、合衆国軍の第101空挺師団の護衛付きで9人の黒人学生が登校したが、校内では白人生徒による激しいいじめや暴力的な嫌がらせが続いたため、いじめに耐えかねて1人が中退している。
参考
このように、モーニンは、当時の激しい黒人差別に苦しんだ黒人達の苦悩を表し、救いのない曲のように思える。
モーニンは、ゴスペルのコールアンドレスポンス(call and response)を取り入れている。
コールアンドレスポンスとは、
演奏者が観客に呼びかけ(call)、それに対して観客が答える(response)
という掛け合いのことだ。
この掛け合いにより、演奏者と観客は対話を通じて盛り上がることができる。
モーニンの場合は、ピアニストが演奏した呼びかけのフレーズに対し、ホーンがそのフレーズに呼応したフレーズを演奏して答える形で対話を進めていくのが特徴だ。
具体的には、次のような感じだろうか。
ピアノ「タッタ ターララーラ タッタ〜!」
(俺は毎朝、人種差別でうめいているんだよ!)
ホーン「ターンタ!」
(アーメン! 主よ憐れみを!)
実は、この「モーニン」の構造は、「坂道のアポロン」の物語の構造にそのまま当てはまるのだ。
なぜなら、ピアニストの薫の苦悩の叫びに対し、ドラマーの千太郎がその苦悩に応えるという形になっているのだ。
ちょうど次のような感じに。
薫「タッタ ターララーラ タッタ〜!」
(俺は毎朝、孤独で吐き気がして、うめいているんだよ!)
千太郎「ターンタ!」
(アーメン! 主よ憐れみを!)
このように、薫と千太郎がピアノとドラムを通じて互いに掛け合いを行い、薫の苦悩の叫びに対して、千太郎が「アーメン!」と応えることにより、薫の苦悩が救われるという構造になっているのだ。
そういう意味で、千太郎がカトリック信者という設定も決して偶然ではない。
このように、「モーニン」は、千太郎との出会いによって薫の苦悩が救われるという、テーマを表す曲であり、だからこそ、「坂道のアポロン」のジャズテーマ曲として多用されているのだ。
そういう観点で、もう一度「坂道のアポロン」を読み返してみるといいだろう。
きっと新たな発見があるはずだ!
【第4曲】Bag’s Groove
Amazonリンク Bags Groove
第4曲目は、Bags’ Grooveだ。
Bags’ Grooveを収録したアルバムは、1954年12月24日のクリスマス・イヴに吹き込まれたため、「クリスマス・セッション」として知られる。
ちなみに、Bagsというのはヴィブラフォンを担当したミルト・ジャクソンのあだ名で、夜のパーティでの飲み過ぎにより、目の下にたるみ(bags)が出来たためだといわれている。
参考
また、Grooveには「レコードの溝、楽しい(ノリノリの)時」の意味があり、「Bags’ Groove」には、
「ミルト・ジャクソンのノリノリで楽しい曲」
という意味が込められているそうだ。
原曲のトランペットを担当したのは、ジャズの帝王として知られるトランペッターのマイルス・デイヴィスだ。
ピアノを担当しているのは、セロニアス・モンク。
原曲は、ミルト・ジャクソンのヴィブラフォンもセッションに加わり、淡々と流れるような感じの若干気だるい大人のジャズだ。
原曲では、
マイルスのトランペットソロ
↓
ミルト・ジャクソンのヴィブラフォンソロ
↓
モンクのピアノソロ
↓
マイルスのトランペットソロ
と続くが、モンクは、ミルト・ジャクソンのときはバックでピアノを弾きまくっているのに、なぜかマイルスのときだけはピアノをまったく弾いていない。
これは、マイルスがモンクに向かって、
「俺のソロの最中は、バックでピアノを弾かないでくれ」
と指示したためであり、モンクが(怒りのあまり)ピアノの演奏を止めたことから、マイルスとモンクの間で、喧嘩腰のムードの中でセッションが行われたとして、長年「クリスマス・ケンカ・セッション」とも呼ばれてきた、いわく付きのセッションだ。
マイルスの自伝によれば、これはモンクのピアノが合わないと感じたマイルスの音楽的な指示によるものであり、喧嘩はなかった(らしい)。
このような背景を知った上で、菅野よう子の演出によるBags’ Grooveを聴いてみよう。
「坂道のアポロン」版は、オリジナルのマイルス盤よりもテンポが早く、3人のセッションに薫が体当たりでいきなり飛び込んでいく初々しさが表現されている。
(↓)初めてジャズの生セッションに飛び込んだ薫の魂の喜びが伝わってくる印象的なカット。それまで孤独でムスッとした表情が多かった薫が初めて見せる心からの笑顔だ。
引用 「坂道のアポロン」小玉ユキ
このセッションでは、淳一のトランペットソロに薫のピアノが積極的に絡んでいく点が、原曲の喧嘩セッションとの一番大きな違いだ。
この薫の淳一に対する積極性が後のストーリー展開に大きな影響を与える。
実際、淳一が千太郎に黙って東京行きを決意したとき、淳一と千太郎との間をとりもとうとする薫の積極的な絡みがあったからこそ、淳一と千太郎との最後の喧嘩セッションが実現したともいえる。
このように、原曲の背景を知ることで、より深く「坂道のアポロン」のストーリーを楽しむことができるのだ。
というわけで、菅野よう子演出のBags’ Grooveは、初めてのジャズセッションに笑いが止まらない薫の興奮する姿が目に浮かぶようなノリノリのグルーヴィーな曲に仕上がっているといえるだろう。
【第5曲】Blowin’ The Blues Away
Amazonリンク Blowin the Blues Away
第5曲は、Blowin’ The Blues Awayだ。
原曲は、ファンキー・ピアノの元祖、ホレス・シルヴァーの作品だ。
ファンキー(funky)とは、元々黒人特有の体臭を意味する隠語で、それから転じて、
黒人らしい野性的で躍動感のあるリズムや演奏
などの形容に使われるようになった言葉だ。
そのため、黒人的なブルースやゴスペルの影響を受けたジャズをファンキージャズという。
この曲も、躍動感あふれる激しいリズムの曲だ。
「坂道のアポロン」では、米兵の集まるバーのクリスマスパーティーでのセッションに使用された。
いきなり現れた百合香の姿に思わず気を取られ、うわの空でドラムを叩く千太郎の目を覚まさせるように激しく叩きまくる薫のピアノ。
そして、目覚めた千太郎のドラムが薫のピアノに応じるように激しく鳴り響く。
ちなみに、Blowin’ The Blues Awayとは、「ブルースを吹き飛ばす」という意味だ。
その名のとおり、薫達のブルーな気分を吹き飛ばす爽快で疾走感あふれる曲といえるだろう。
【第6曲】Satin Doll
Amazonリンク Satin Doll
第6曲は、Satin Dollだ。
「坂道のアポロン」のアニメ化においては、山本幸治(やまもと こうじ)プロデューサーの意向で、毎回演奏シーンを入れることになっていたそうだ。
だが、石若駿、松永貴志の両者がアドリブを加えて自由に演奏したシーンを10台ものカメラを使って実写を撮影した上で、それを逐一アナログで描き起こしていたため、普通の倍もの労力がかかり、現場は瀕死の状態だったそうだ。
そのため、録音済みであるにもかかわらず、アニメで使用されなかった曲がある。
それがこのSatin Dollだ。
アニメでは、淳一と百合香が街を去って行った後、3年への進級を前に薫と千太郎が地下室でセッションしているときに、千太郎が薫の演奏を
「ボン 今んとモンクのごたったやっか かっこよかなぁ」
(セロニアス・モンクみたいで格好良かった)
と褒めるシーンで使用される予定だったそうだ。
Satin Dollは、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンによって作曲されたジャズの定番中の定番ともいえるスタンダードだ。
ちなみに、Satin Dollの由来だが、Satin Dollには「繻子(しゅす)の人形」という意味がある。
この曲はもともと、デューク・エリントンの親友であったアメリカン・バーレスクの黒人ダンサーにしてストリッパーのトニー・エリング(Toni Elling)のために作曲された曲だそうだ。
トニー・エリングは、芸名としてSatin Dollを名乗るようになったという。
参考

ところで、千太郎があげたピアニストのセロニアス・モンクは、デューク・エリントンの影響をかなり受けており、デューク・エリントンの作品も数多く演奏している。
初めてモンクを聴いた人は、
「なに? このへたっぴ?」
という感想を抱くかもしれない。
実際、モンクは、独学でピアノを勉強していたためか、その演奏は独特でクセがある。
モンクは、不協和音をわざと多用し、酔っ払っているかのような間のとり方など、演奏がとにかく型破りなのだ。
あまりに演奏が個性的すぎるので、マイルス・デイビスから「俺のソロの最中は、バックでピアノを弾かないでくれ」とモンクに指示したクリスマス・ケンカ・セッションのエピソードについては、上で紹介したとおりだ。
独創性がありすぎて、あのマイルスでさえバックにするのを避けたがったモンクの個性的な演奏がジャズミュージシャン達に理解されるまで、実に15年もの歳月がかかったのだ。
それだけ個性的なモンクの演奏を高校生である薫がマスターし、その良さを理解した千太郎が格好いいと褒めまくる。
「おまえら何者なんだよ!?
本当にアマチュアバンドの高校生かよ?」
だが、サントラのSatin Dollは、モンクの演奏ほどぶっ飛んだものではないので安心して聴いてほしい。
なお、サントラのSatin Dollは、後にDVD販売の紹介曲としてしっかり使用されていたりするので、完全な未使用というわけでもない。
【第12曲】But not for me
第12曲は、But not for meだ。
「坂道のアポロン」では、米兵の集まるバーのクリスマスパーティーでのセッションでBlowin’ The Blues Awayを激しく演奏する薫たちに、酔っ払いの白人から
「わしゃーそういう黒人のジャズは嫌いなんだ!
さっきからドカドカうるさくてかなわん!
やるんなら白人のジャズをやれ!」
引用「坂道のアポロン」小玉ユキ
と文句をいわれる。
千太郎が起こってセッションを離脱してしまう最悪な雰囲気の中、淳一が機転をきかせ、薫とデュオで演奏するのがこの曲だ。
原曲は、アメリカ西海岸一帯で演奏されていたウエストコート・ジャズの代表的なトランペット奏者にしてヴォーカリストのチェット・ベイカーの曲だ。
チェット・ベイカーは、1950年の半ばには、黒人トランペット奏者にして、モダン・ジャズの帝王マイルス・デイヴィスを凌ぐほどの人気を誇っていた白人トランペット奏者だ。
酔っ払いから「黒人のジャズは嫌いだ! 白人のジャズをやれ!」と文句をいわれ、黒人トランペット奏者のマイルス・デイヴィスより人気のあった白人トランペット奏者の曲を出してきたところは、さすがは淳一アニキというところか。
(↓)とっさの機転により、But not for meを歌う淳一。ジェームズ・ディーンばりのイケメン青年である淳一に百合香の視線が釘付けになる。トランペット片手に歌う淳一の姿は、若き日のチェット・ベイカーに似ていなくもない。
引用 「坂道のアポロン」小玉ユキ
チェット・ベイカーの魅力といえば、中性的で甘い歌声だ。
彼の歌声を聞いていると、ときどき女性が歌っているのじゃないかと錯覚することもあるくらいだ。
実際、少年時代のチェットは「女の子のような声」で歌っていたらしく、それを嫌った父親がトランペットを買い与えたところ、チェットは歌だけでなく、トランペットも吹けるようになったそうだ。
また、チェットは中性的な歌声だけでなく甘いマスクにより、数多くの女性を魅了し、
ジャズ界のジェームズ・ディーン
ともいわれるほどだ。
要するに、チェット・ベイカーは、どことなくイケメンの淳一に似ているのだ。
それゆえ、「坂道のアポロン」のキャラクターの考察にあたって、
薫 → ビル・エヴァンス
淳一 → チェット・ベイカー
と考えてみると、興味深い発見があるかもしれない。
さて、サントラでトランペットを担当したのは、トランペット奏者の類家心平(るいけ しんぺい)だ。
類家心平は、10歳の時に小学校の吹奏楽部に入部してトランペットを、海上自衛隊の音楽隊でトランペットを担当していたという異色の経歴の持ち主だ。
自衛隊を退官した後、6人組のジャズ系ジャズバンドurbのメンバーとしてメジャーデビューし、その後、3枚のアルバムを発売して、J-JAZZのランキング一位を獲得した。
「機動戦士ガンダム サンダーボルト」の作曲を担当したジャズミュージシャン・菊地成孔のファンでもあり、菊地成孔ダブ・セクステットやDCPRGでも共演している。
参考

一方、ヴォーカルを担当したのは、ギタリストにしてシンガーソングライターの古川昌義(ふるかわ まさよし)だ。
古川昌義は、7歳頃からクラシックギターのレッスンを受け始め、11歳のときに兄とジョイントリサイタルを行い、12歳の頃に、第1回ギター新人大賞選考演奏会で2位に入賞したそうだ。
また、SMAPや嵐、中島みゆき、福山雅治などさまざまなアーティストのツアーやレコーディングに参加し、NHK朝の連続テレビ小説「甘辛しゃん」等のTVやCM音楽まで手がけている。
参考
この2人のコラボレーションにより、白人の酔っ払いも認め、一発で百合香の心も射抜いたヒーロー、淳一のトランペットと甘いボイスが再現された。
チェット・ベイカーの原曲も素晴らしいが、「坂道のアポロン」のBut not for meもゆったりとテンポよく、淳一の大人の余裕を感じさせる素晴らしい曲に仕上がっている。
そのあまりの格好良さに、百合香でなくとも一発で惚れ込むこと間違いなしのクオリティの高さだ!
この曲を聴いて、大人のジャズのヴォーカルの魅力をぜひ感じてほしい。
【第13曲】My Favorite Things
Amazonリンク My Favorite Things (Remastered)
第13曲は、My Favorite Thingsだ。
原曲は、律子が大きな影響を受けた映画「サウンド・オブ・ミュージック」のうちの一曲だ。
Amazonリンク サウンド・オブ・ミュージック (字幕版)
雷を怖がる子供達がマリア先生の部屋にやってくる場面、マリア先生がトラップ家に帰ってきた場面で歌われる。
映画は1965年に公開されたが、ミュージカルの劇中曲をもとに、ジョン・コルトレーンが1961年にカバーし、ジャズのスタンダード・ナンバーとして知られる曲だ。
「坂道のアポロン」では、最後の文化祭で、華のない2人の男と親父のジャズトリオでは、オリンポスに勝てないと思った薫が、律子にこの曲を歌ってもらうようお願いする。
実は、サントラの曲も、律子の声を担当した南里侑香(なんり ゆうか)が歌っている。
サントラのMy Favorite Thingsは、ジャズ初心者の律子の初々しさと可愛らしさがうまく表現されている。
また、薫のピアノソロがドラマチックに曲を盛り上げており、律子のヴォーカルの魅力をうまく引き出しているだろう。
【第16曲】Lullaby Of Birdland
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第16曲は、バードランドの子守唄だ。
原曲は、イギリス生まれのジャズピアニストのジョージ・シアリングが作曲した。
ジョージ・シアリングは生後間もなく盲目となるが、3歳でピアノを始め、クール・ジャズの第一人者として活動し、数多くのスタンダード・ナンバーを生み出した天才ピアニストだ。
そのジョージ・シアリングが1952年にニューヨーク市マンハッタンでジャズの黄金時代のメッカとして知られ、モダン・ジャズの父、チャーリーパーカーのあだ名に由来したジャズ・クラブ「バードランド」にちなみ、この「バードランドの子守唄」を作曲した。
その2年後、アメリカのジャズシンガーのクリス・コナーが「バードランドの子守唄」を発売し、2万枚のセールスを記録し、代表作となった。
「坂道のアポロン」では、子供の時以来、離ればなれになっていた母親と東京で再開した薫が、長崎への帰り際に渡したレコードアルバム(上の画像)の1曲目だ。
薫は母親に、このバードランドの子守唄を聴いて、次に会いに来るときまでに歌の練習をしておいてほしいと伝える。
若いときと違って声がかすれてしまったという薫の母親に向かって、千太郎が、
「ジャズはハスキーな女の人が歌うとが良かとです」
というように、クリス・コナーは、そのハスキーボイスでバードランドの子守唄をブルージーに歌い上げる。
バードランドの子守唄は、聴いていてなぜか切なくなる歌だ。
サントラでバードランドの子守唄を歌うのは、女性シンガーの手嶌葵(てしま あおい)だ。
2005年、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーと宮崎吾朗監督が、米国映画「ローズ」の主題歌「The Rose」のカバー曲を聴いて彼女の歌声に惚れ込み、無名ながらジブリ映画「ゲド戦記」のテーマソングを歌う歌手にいきなり抜擢され、ヒロイン・テルー役の声優も務めることになった経歴の持ち主だ。
このとき発売されたゲド戦記の挿入歌を収録したシングル「テルーの唄」は、オリコンで初登場5位、出荷枚数約30万枚を記録し、音楽配信での楽曲ダウンロード件数は当時のスタジオジブリシリーズの主題歌で最大の約65万件を記録した大ヒット曲だ。
美しいピアノの伴奏とともに、その澄み渡った歌声。
心が震える一曲とは、まさしくこの曲のためにある言葉といっても過言ではないだろう。
懐かしい感じの日本風のテルーの唄を歌う手嶌葵は、ジャズとは無縁のように思われる。
だが、手嶌葵は、中学時代に聴いたルイ・アームストロングのムーン・リバーに衝撃を受けてジャズ好きになったそうだ。
それゆえ、手嶌葵にとって、ジャズは彼女の音楽のルーツともいえるものだ。
その手嶌葵が歌うバードランドの子守唄は、切なくも美しい旋律の鼻歌から始まり、子供の頃の薫と母親の哀しい別れの記憶を思い起こさせる。
だが、その後に続く手嶌葵の美しい歌声は、包み込むような優しさに満ちあふれ、聴く者をして感動させずにはいられないほどのクオリティの高さだ。
手嶌葵のバードランドの子守唄は、このサントラの中で、もっとも哀しくも美しいソングといえるだろう。
薫と母親の再会のシーンを読むときに、この曲をリピート再生しながら読んでみよう。
手嶌葵の優しく包み込むような歌声とともに、紙面からあふれでる薫と母親の再開の想いの奔流に、菅野よう子による演出がいかに素晴らしいものであるか、心の底から実感できるだろう。
【第18曲】Four
Amazonリンク フォア&モア
第18曲はFour。
ジャズの帝王マイルス・デイヴィスが1964年に録音し、1966年にリリースしたライブアルバム「Four & More」の中の1曲だ。
Fourは、マイルス・デイヴィスの作品だとよく誤解されているが、実は、アメリカのジャズサックス奏者のエディー・クリーンヘッド・ヴィンソン作曲のスタンダード・ナンバーだ。
ちなみに、エディー・ヴィンソンは、毛髪矯正製品に含まれる灰汁成分により誤って禿げてしまったため、クリーンヘッド(クリクリ坊主)というニックネームがついたそうだ。
「坂道のアポロン」では、淳一が東京へ行くため夜行列車で長崎を去る前に、淳一と最後の果たし合い(セッション)をすべく、千太郎が送った果たし状に応じて演奏する。
原曲では、実に6分以上もの長きにわたって、帝王マイルスのトランペットとトニー・ウィリアムスのドラムの演奏が延々と繰り広げられる。
トニー・ウィリアムスは、神業ともいえる超高速のシンバルとドラムの連打を得意としており、若干17歳でトニーがマイルスデイヴィスのグループに加入した後、超高速のビートでマイルスを煽りまくり、負けじと焦ったマイルスがトニーのスピードに対抗するため、年を追うごとにテンポが早くなっていったそうだ。
実際、原曲のFourを聴いていると、マイルスとトニーが初っ端から超高速の演奏で飛ばしまくり、互いに相手を煽りまくって激しい殴り合いをしているかのようだ。
「坂道のアポロン」では、淳一と千太郎がマイルスとトニーよろしく、激しい掛け合いを通じて「本気の殴り合い」をする。
(↓)千太郎と淳一の最後のセッションにして「本気の殴り合い」。その凄まじいまでの迫力に薫も律子の親父も唖然とする。セッションを通じた2人の男の熱き勝負は、数ある「坂道のアポロン」のセッションの中でも圧倒的な迫力に満ちている。
引用 「坂道のアポロン」小玉ユキ
サントラでは、トランペット担当の類家心平とドラムス担当の石若駿が、このときの熱い演奏を再現し、2人の男の激しい殴り合いを再現している。
サントラのFourは、わずか1分35秒しかないのが名残惜しい。
個人的には、原曲と同じく6分以上の長きにわたって、2人の殴り合いをとことん聴きまくりたかったと思う曲である。
【第21曲】Milestones
Amazonリンク MILESTONES
第21曲は、Milestonesだ。
Milestonesはもともとはマイルス・デイヴィスの代表曲の1つだ。
このアルバムはマイルスが初めてモード奏法を実践したアルバムといわれている。
モード奏法とは、コード進行に縛られず、1つのモード(中心音のある特定の音列からとった一連の音の並び)に従って、演奏する手法だ。
モード奏法で演奏されるジャズをモード・ジャズという。
難しい音楽理論を抜きにしてざっくりいうと、モード・ジャズとは、コード進行に基づく従来のビバップやハード・バップよりもアドリブの自由度が高いジャズのことだ。
第2回のフリー・ジャズの説明でも書いたが、ジャズの歴史は、
ルールに従った従来の演奏スタイル
↓
誰が演奏しても同じような演奏になりマンネリ化
↓
従来のルールを破る新時代の革命児の登場
↓
より自由なアドリブを重視した個性的な演奏スタイルの確立
という流れで進化してきた。
マイルス・デイヴィスは、このような流れの中で、つねに最前線に立ってジャズの進化を引っ張ってきた革命児であり、それゆえモダン・ジャズの帝王として、当時のジャズ界に君臨してきたのだ。
Milestonesは、マイルス(トランペット)とコルトレーン(テナー・サックス)とキャノンボール(アルト・サックス)の3管編成による歯切れのいいスタッカートから始まる、渋くて格好いい一曲だ。
このマイルスによる原曲を、ビル・エヴァンスがピアノトリオでカバーしている。
Amazonリンク WALTZ FOR DEBBY
マイルスのMilestonesはひたすら渋くて格好いいが、ビル・エヴァンスのMilestonesはひたすら情熱的で格好いい。
しかしながら、高校3年生の文化祭の出し物として、このモード奏法ばりばりの曲を演奏するのは、果たして選曲としてどうだろうか?
しかも、薫たちは、よりにもよってベース奏者に律子の親父を迎え、男2人+中年親父のむさ苦しいトリオで、女の子の物量で攻めるオリンポスと対決しようとしていたのだ!
だが、実際にサントラを聴いてみると、そのような心配は杞憂だったことがすぐにわかる。
なぜなら、ビル・エヴァンスばりに情熱的な薫のピアノソロの旋律が実に素晴らしいのだ!
また、中盤から始まる律子の親父のベースソロは、あの千太郎をして、
「うほっ しっびれるー」
といわせるほどの格好良さだ。
そして、その後の千太郎の気合いの入りまくったドラムソロ!
正直やりすぎである。
これだけのクオリティの高さなら、仮に律子の歌がなかったとしても、きっと文化祭でオリンポスといい勝負になっていたに違いない。
【第23曲】Kaoru & Sentaro Duo in BUNKASAI
第23曲は、2年の文化祭における薫と千太郎のデュオだ。
この曲は、薫のどことなく幻想的かつブルージーなMy Favarite Thingsのピアノソロから始まる。
そこに千太郎のドラムが入り、薫を挑発するように勢いを増し、薫も千太郎の挑発に応えるかのように激しくピアノを叩く。
が、中盤で突然、Someday My Prince Will Come(いつか王子様が)にチェンジする。
「勝手に変わり身の術」
と薫が名付けるテクニックを天才ピアニストの松永貴志が再現するさまは、まさしく見事というほかない。
千太郎のドラムを演奏するのは、同じく天才ドラマーの石若駿だ。
だが、このSomeday My Prince Will Comeは、ビル・エヴァンスの原曲からは似ても似つかない激しい曲だ。
まるで王子様がふたりで仲良くケンカしながら帰ってきたみたい 自分達の国に
と律子が感想を抱いたように、ピアノとドラムの激しいたたき合いだ。
そして最後は、おなじみのMoanin’だ。
立ち上がったままMoanin’を弾く薫。
3分32秒という長さをまるで感じさせない密度の高く、曲を聴くだけであの感動的な文化祭のシーンが心に蘇ってくる素晴らしい名演だ。
(↓)文化祭で演奏する薫と千太郎。「坂道のアポロン」で一番感動的な名シーンである。
引用 「坂道のアポロン」小玉ユキ
曲を聴きながら、原作を読んでみると、薫と千太郎の心の動きまで完璧に音楽で再現されていることに驚くだろう。
しかも、さらに驚愕なのは、演奏が終わった後、8秒間の間(無音部分)も録音されている点だ。
この8秒間の間こそが重要なのだ!
なぜなら、この間は、薫と千太郎の演奏に驚愕したあまり、思考が停止してしまった聴衆の衝撃の感情を表しているからだ!
(↓)驚愕のあまり聴衆が絶句するこのシーンまで再現されているのだ。この8秒間の間があるからこそ、聴く者は、存分に曲の余韻に浸ることができるといえるだろう。
引用 「坂道のアポロン」小玉ユキ
このように、このライブは、菅野よう子によって、緻密なまでに計算され尽くした最高の演出が生み出した最高のライブであり、それゆえ、聴く者をして感動させずにはいられないのだ!
アニメジャズが原曲を超えた!
そういっても過言ではない一曲である。
【第24曲】Someday My Prince Will Come
第24曲は、Someday My Prince Will Come(いつか王子様が)だ。
この曲はもともと、ディズニーのアニメ映画「白雪姫」の挿入歌だったが、ジャズ・スタンダードとしても知られている。
実際、マイルス・デイヴィスやオスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンスなどによりカバーされ、さまざまなヴァージョンが録音されている。
「坂道のアポロン」では、
「薫君 ピアノトリノならビル・エヴァンス聴いてみたらいい
これに入っとる”いつか王子様が”って曲な
これ女の子の目の前で聴かせたらイチコロばい
甘くてロマンチックな曲やけんな」
という淳一のアドバイスを受けた薫が、この曲を練習して律子に披露する。
さすがに、女性にモテまくりのイケメン兄貴・淳一のチョイスだけあって、いかにも女性受けしそうな甘くてロマンチックな曲だ。
薫の弾くSomeday My Prince Will Comeは、ビル・エヴァンスよりもはるかにゆったりとしたテンポで、ひとつひとつ美しいメロディをつぐんでいく。
(↓)2人きりの地下室で、薫は律子への想いを込めてメロディをつぐんでいく。天才ピアニスト・松永貴志が演奏するSomeday My Prince Will Comeは、律子の幸せを願う、薫の想いを見事までに再現している奇跡的な演奏といえるだろう。
引用 「坂道のアポロン」小玉ユキ
上のカットにあるように、この曲は、
「少しでも幸せな気持ちになってもらいたい」
という、薫の律子への願いが込められている。
そのため、この曲を聴いた後はなぜか癒やされるというか、人の幸せを願いたくなるような、不思議な気分になるのだ。
そういう意味で、この曲はまさしく、薫の律子への愛がこもった最高のプレゼントといえるだろう。
【まとめ】「坂道のアポロン」はジャズ入門者に最適
以上、「坂道のアポロン」の素晴らしさについて紹介した。
一般に、ジャズは敷居が高いと言われるが、そういうジャズ初心者のために、この「坂道のアポロン」のサントラを最初に勧めたい。
というのも、このサントラは、モダン・ジャズの全盛期である1960年代のスタンダードナンバーがこれでもかというほどに盛り込まれているからだ!
そして、マイルス・デイヴィスやチェット・ベイカー、ビル・エヴァンスなど、気になる作曲家の曲が見つかったら、次に、その曲の入ったアルバムを聴いてみることをオススメする。
このようにして、お気に入りの曲を少しずつ広げていくことで、ジャズの敷居を簡単にまたぐことができるのだ。
私のお勧めは、「坂道のアポロン」のサントラに収録された曲のうち、上でとりあげたスタンダード・ナンバーだけを集めたプレイリストを作ることだ。
このようにすれば、薫達が生きてきた黄金時代のジャズの名曲のみを繰り返し堪能することができるのだ!
だが、あまりやり過ぎると、菅野よう子に怒られるので注意してほしい!
あと、ジャズ初心者には、ビル・エヴァンスのアルバム「ワルツ・フォー・デビイ」が特にお勧めだ!
Amazonリンク WALTZ FOR DEBBY
このアルバムは、ジャズ初心者でもなじみやすい美しいメロディーが多く、とても親しみやすいので初心者にお勧めだ。
特に、女性に絶大な人気のあるアルバムだ。
こういう曲が流れているおしゃれなレストランで食事をすれば、ロマンチックなムードになって盛り上がること請け合いだ。
イケメンの淳兄もお勧めのビル・エヴァンス!
最後に、淳兄の名言で、締めくくることにしよう。
「これ女の子の目の前で聴かせたらイチコロばい」
(ただしイケメンに限る)(←おい)
というわけで、あなたもジャズ入門に最適な「坂道のアポロン」のサントラを聴いて、華麗なるアニメジャズの世界に足を踏み入れ、充実したオタクライフを存分に満喫してほしい。
オタクパパより愛を込めて!
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